追放を招いた佐久間信盛の消極的な「保身」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第19回
■織田家における信盛の地位
信元は織田家臣団の中でも信秀の時代から仕えているため、信長にとっては数少ない譜代衆と言える存在です。弟の織田信勝(おだのぶかつ)との家督争いにおいても、一貫して信長方として戦っています。
一方で同じでもある林秀貞(はやしひでさだ)などは一時的に信勝を支持したり、柴田勝家(しばたかついえ)も信雄の家老として信長の排除に加担したりするなど、信盛のように一貫している者は多くありません。
後に織田家の重臣となる豊臣秀吉や明智光秀、滝川一益(たきがわかずます)、丹羽長秀(にわながひで)たちについては信長の時代になってから織田家に仕えているため、信盛たちと比較すると新参となります。これらの経緯も含め、信盛は織田家の筆頭家老とされるようになっていったようです。
信長は家督と岐阜城を信忠(のぶただ)に譲った際には信盛の居城を在所として使い、後の安土城についての助言を求めるなど、信盛に対して特別な扱いをしています。また、堺での茶会には近衛前久(このえさきひさ)や松井夕閑(まついゆうかん)など外部の有力者とともに信長の相伴を受けています。この時点での信盛は織田家最大規模の畿内方面軍の指揮を任されており、信長からの信頼は家中一のようにも見えます。
しかし、織田家中の筆頭家老とはいえ「保身」を考慮することも重要でした。
■消極的な姿勢による信盛の「保身」
信盛の前任である塙直政(ばんなおまさ)は、本願寺攻略において積極的に戦いを仕掛けた事で反撃に合い、多数の被害を出して討死してしまいます。勢いに乗った本願寺側の猛攻により織田家は窮地に陥り、信長が直接出馬して一揆勢を追い、何とか体制の立て直しに成功します。
塙直政は、死後にその責任を追及されて一族が罪人として捕縛されるという厳しい処置が取られました。その後を受ける信盛としては、同じ失敗は避けなければならないため、本願寺攻略において「保身」のためにも慎重にならざるを得なかったと思われます。
そのため、本願寺攻略において自軍の損害を大きくしないために、積極的な攻撃を避け、周辺勢力の駆逐などで本願寺の孤立化を図り、長期的な包囲戦を行っています。また、新参の与力衆の戦力を優先的に使う事で自軍の被害を減らすように心がけています。積極的な兵の増強を行わなかった事も、財政的な支出を減らすという意味で「保身」だったのかもしれません。そして5年をかけて、宿敵とも言える本願寺勢力を石山から退去させる事に成功します。
しかし、本願寺を殲滅(せんめつ)できず講和という不完全燃焼のような形で決着がついた事に対して、信長から19箇条の折檻状でもって責任を追求される事になります。この結果は、信盛の消極的な行動による「保身」が裏目に出たものと思われます。
■徹底的な「献身」で身を守る秀吉
一方、秀吉は積極的な信長への「献身」によって身を守ろうとしていました。織田家の勢力拡大のために、身を粉にするほど徹底的に尽力しています。また、信長には状況を細かく報告し、時には助けを求めるなど、信長に頼る姿勢も見せます。さらに、自身の養子として信長の四男秀勝(ひでかつ)を迎えるなど、信長に対して「献身」的な姿勢を示します。
現代でも同様に、その行動が「保身」と捉えられると組織内での評価を落とす場合があります。逆に、徹底的に「献身」する事で、上層部の信頼を得て、出世や昇進へと繋がるケースが多々あります。「献身」の先に「保身」があるという図式です。
もし信盛も、秀吉のような積極的な「献身」が図れていれば、その後の歴史も変わっていたかもしれません。
信盛の例は「保身」における「献身」の重要性を知るよい事例だと思います。
ちなみに、信盛が失脚した後は、畿内方面軍を継いだ光秀が本能寺の変を起こす事になります。光秀は信盛や秀吉とは違う形で、「保身」に走ったのかもしれません。
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